クラウン通がかよう 「ひゃくばん倶楽部」 第十六話 : 観音開き
“ひゃくばん倶楽部”へようこそ。私の名前は“ひゃくばん”。
この“ひゃくばん倶楽部”の案内人。一般的には、初代クラウンと呼ばれている。
「これ!“観音開き”のやつでしょ?」
私(初代クラウン)を見て開口一番、このように口にする年配の方は多い。
“観音開き”は、私の代名詞にもなっているが、どうしてそうなったのかを知る人は少ない。
そこで今日は“観音開き”の話をしよう。
この“ひゃくばん倶楽部”の案内人。一般的には、初代クラウンと呼ばれている。
「これ!“観音開き”のやつでしょ?」
私(初代クラウン)を見て開口一番、このように口にする年配の方は多い。
“観音開き”は、私の代名詞にもなっているが、どうしてそうなったのかを知る人は少ない。
そこで今日は“観音開き”の話をしよう。

私を開発するにあたって、担当者はまず販売店やタクシー会社をまわって、どんなクルマをつくったらよいかを聴いて歩いた。
ある時、タクシー会社の人がこんなことを言った。
「後ろのドアは、後方に開いた方が、開口部が広くなって乗り降りがしやすいんじゃないか?」
「ドアノブも中央にあった方が、お客様をお乗せする際に素早く操作できる!」
“ドアノブが中央にあると、素早く操作できる”ってどういうこと?と、思われる方も多いだろう。
今ではタクシーのドアは自動開閉があたりまえだが、当時のタクシーでは文字どおり助手席には助手が座っていて、お客様の乗降にあたっては助手が後部ドアの開閉を行っていたのだ。
こうしたタクシー会社の声が、私を“観音開き”にしたのだ。
ちなみに“観音開き”の初代クラウンは、1955年1月~1962年9月迄に116,400台生産されている。
二代目以降に観音開きが採用されなくなった理由は、「ライバル車との競争が激化し、綺麗なシルエットを重視したからだ」と言われているが、私は理由は一つじゃないと思っている。
二代目が登場する1960年代になると、日本も高速時代を迎えた。
“観音開き”は、後部ドアを半ドア状態で走行した場合、風にあおられて開いてしまう危険性があったのではないのだろうか。
ある時、タクシー会社の人がこんなことを言った。
「後ろのドアは、後方に開いた方が、開口部が広くなって乗り降りがしやすいんじゃないか?」
「ドアノブも中央にあった方が、お客様をお乗せする際に素早く操作できる!」
“ドアノブが中央にあると、素早く操作できる”ってどういうこと?と、思われる方も多いだろう。
今ではタクシーのドアは自動開閉があたりまえだが、当時のタクシーでは文字どおり助手席には助手が座っていて、お客様の乗降にあたっては助手が後部ドアの開閉を行っていたのだ。
こうしたタクシー会社の声が、私を“観音開き”にしたのだ。
ちなみに“観音開き”の初代クラウンは、1955年1月~1962年9月迄に116,400台生産されている。
二代目以降に観音開きが採用されなくなった理由は、「ライバル車との競争が激化し、綺麗なシルエットを重視したからだ」と言われているが、私は理由は一つじゃないと思っている。
二代目が登場する1960年代になると、日本も高速時代を迎えた。
“観音開き”は、後部ドアを半ドア状態で走行した場合、風にあおられて開いてしまう危険性があったのではないのだろうか。

色々な事情から“観音開き”はなくなってしまったが、今後も私の代名詞として語り継がれることは間違いないだろう。
それではまた、「ひゃくばん倶楽部」で逢おう。
それではまた、「ひゃくばん倶楽部」で逢おう。
■どうして私が、「ひゃくばん」と呼ばれているのか…ご存知ない方は「ひゃくばん物語」をご覧いただきたい。
【ひゃくばん物語】
私の名前は“ひゃくばん”。1955(昭和30)年生まれの65歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
「博物館でしかお目にかかれない」などという人もいるが、私は今でも地面さえあれば何処へでも走っていける。
もちろん、こうして今も元気に走り続けていられるのには理由がある…続きを読む
私の名前は“ひゃくばん”。1955(昭和30)年生まれの65歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
「博物館でしかお目にかかれない」などという人もいるが、私は今でも地面さえあれば何処へでも走っていける。
もちろん、こうして今も元気に走り続けていられるのには理由がある…続きを読む