横浜とお茶の意外な関係【第1話】
2018.07.30
こんにちは!
ブログ「神奈川 大好き!だって“生まれも育ちも働く場所も神奈川県”」のウッチです!
猛烈な暑い日々が続いていましたが、ここのところ暑さが和らぎ、ようやくいつもの夏だな、なんて思ったりしています。
突然ですが、横浜が「お茶」で有名な場所だったと知っていますか?
と言っても、横浜にお茶畑があったわけでも、お茶を育てていたわけでもありません。
という事で、今回は横浜とお茶の意外な関係についてご紹介いたします!
今から約160年前の明治元年、お茶の輸出を許された唯一の貿易港として横浜が選ばれ、世界に向けて日本のお茶が発信される事になりました。
お茶は長い時間をかけ、船で世界へ輸出されていたわけですが、その間に茶葉の色も味も
悪くなってしまう、という事がありました。
それを防ぐため、輸出の直前に焙じる、つまり火入れをして乾燥させたり、着色料を使って茶葉に艶を出す、という作業が必要でした。
その作業をする場所を「お茶場」と言い、かつての横浜にはたくさんありました。
毎朝4時には鐘の音を合図に、どこからともなく「再製茶女工」と呼ばれる女性たちが横浜公園(現在の横浜スタジアム周辺)へ集まり、そこから「お茶場」のある工場に分かれていきました。
夕方になるとあちこちの「お茶場」から次々出てきては、家路に帰る女性たちであふれかえる、という光景が毎日のように繰り広げられていたようです。
作業を終えた女性たちの顔は、茶葉に艶を出すための着色料のためか、青緑色に染められていたというのですから、その光景はちょっと怖いですね。
「お茶場」で働く女性の年齢は14歳~60歳くらい、多いときには約6,000人の女性たちが風もほとんど通らない石造りの平屋で労働をしていました。
室内の温度はお茶を焙じる熱気のために44℃~46℃もありましたが、このような過酷な環境で一日13時間も働いていました。

※現在の横浜公園
現在の横浜には「お茶場」はすでにありませんが、お茶を扱う商店や名残が多く残っています。
その中でも老舗である横浜市中区にある「栗田園」さんにお茶にまつわるお話を伺ってきましたので来週はそのお話をさせて頂きます!
ブログ「神奈川 大好き!だって“生まれも育ちも働く場所も神奈川県”」のウッチです!
猛烈な暑い日々が続いていましたが、ここのところ暑さが和らぎ、ようやくいつもの夏だな、なんて思ったりしています。
突然ですが、横浜が「お茶」で有名な場所だったと知っていますか?
と言っても、横浜にお茶畑があったわけでも、お茶を育てていたわけでもありません。
という事で、今回は横浜とお茶の意外な関係についてご紹介いたします!
今から約160年前の明治元年、お茶の輸出を許された唯一の貿易港として横浜が選ばれ、世界に向けて日本のお茶が発信される事になりました。
お茶は長い時間をかけ、船で世界へ輸出されていたわけですが、その間に茶葉の色も味も
悪くなってしまう、という事がありました。
それを防ぐため、輸出の直前に焙じる、つまり火入れをして乾燥させたり、着色料を使って茶葉に艶を出す、という作業が必要でした。
その作業をする場所を「お茶場」と言い、かつての横浜にはたくさんありました。
毎朝4時には鐘の音を合図に、どこからともなく「再製茶女工」と呼ばれる女性たちが横浜公園(現在の横浜スタジアム周辺)へ集まり、そこから「お茶場」のある工場に分かれていきました。
夕方になるとあちこちの「お茶場」から次々出てきては、家路に帰る女性たちであふれかえる、という光景が毎日のように繰り広げられていたようです。
作業を終えた女性たちの顔は、茶葉に艶を出すための着色料のためか、青緑色に染められていたというのですから、その光景はちょっと怖いですね。
「お茶場」で働く女性の年齢は14歳~60歳くらい、多いときには約6,000人の女性たちが風もほとんど通らない石造りの平屋で労働をしていました。
室内の温度はお茶を焙じる熱気のために44℃~46℃もありましたが、このような過酷な環境で一日13時間も働いていました。

※現在の横浜公園
現在の横浜には「お茶場」はすでにありませんが、お茶を扱う商店や名残が多く残っています。
その中でも老舗である横浜市中区にある「栗田園」さんにお茶にまつわるお話を伺ってきましたので来週はそのお話をさせて頂きます!