クラウン通がかよう 「ひゃくばん倶楽部」 第五話 : 「クラウン」の意味
2018.06.12
「ひゃくばん倶楽部」へようこそ。
私の名前は「ひゃくばん」、この「ひゃくばん倶楽部」の案内人。
1955(昭和30)年生まれの63歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
みなさんは「クラウン」はどうして「クラウン」という名前なのかご存知だろうか。
「クラウン」とは英語で「王冠」の意味。
つまり「国産車を常にリードし続ける王座のしるし」という意味が込められているのだ。
だが、私の顔を正面からよく見てほしい。
…どうだろう。
私のこの凛々しいフロントマスクの輪郭が、まさに王冠のように見えないだろうか。
私はここにも「クラウン」と名付けられた意味があるのではないかと思っている。
自分だけの「クラウン」の意味を探すのもまた一興ではないだろうか。
それではまた、「ひゃくばん倶楽部」で逢おう。
■どうして私が、「ひゃくばん」と呼ばれているのか…ご存知ない方は「ひゃくばん物語」をご覧いただきたい。
【ひゃくばん物語】
私の名前は“ひゃくばん”。1955(昭和30)年生まれの63歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
「博物館でしかお目にかかれない」などという人もいるが、私は今でも地面さえあれば何処へでも走っていける。
もちろん、こうして今も元気に走り続けていられるのには理由がある…続きを読む

クラウン通がかよう 「ひゃくばん倶楽部」 第四話: 三浦半島“クラウン”ラリー
2018.06.08
「ひゃくばん倶楽部」へようこそ。
私の名前は「ひゃくばん」。この「ひゃくばん倶楽部」の案内人。
1955(昭和30)年生まれの63歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
さて、今日はクラウンラリーについて話をしよう。
1958(昭和33)年、神奈川トヨタ主催で“三浦半島一周ラリー”がスタートした。
腕自慢の“神奈川クラウン会”のメンバーに加え、当時の人気女性歌手や豪州一周ラリーのドライバーもゲスト出場し、話題を呼んだ。
クラウンとラリー…今ではあまりイメージが結びつかないかもしれない。
しかしこの時代、産まれたばかりの純国産乗用車の耐久性を世の中に知ってもらう為に、ラリーはうってつけのイベントだったのだ。
こうした神奈川トヨタの取り組みは全国に伝わり、各地で続々とクラウン会が誕生することになった。
クラウンを愛する人の輪が広がっていく…とても嬉しい出来事だった。
それではまた、「ひゃくばん倶楽部」で逢おう。
■どうして私が、「ひゃくばん」と呼ばれているのか…ご存知ない方は「ひゃくばん物語」をご覧いただきたい。
【ひゃくばん物語】
私の名前は“ひゃくばん”。1955(昭和30)年生まれの63歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
「博物館でしかお目にかかれない」などという人もいるが、私は今でも地面さえあれば何処へでも走っていける。
もちろん、こうして今も元気に走り続けていられるのには理由がある…続きを読む

クラウン通がかよう 「ひゃくばん倶楽部」 第三話 : 神奈川クラウン会
2018.06.02
「ひゃくばん倶楽部」へようこそ。
私の名前は「ひゃくばん」、この「ひゃくばん倶楽部」の案内人。
1955(昭和30)年生まれの63歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
さて、みなさんは「神奈川クラウン会」というのをご存知だろうか?
話は初代クラウンが発売されて3年目の1958(昭和33)年にまで遡る。
クラウンを愛用するオーナーさんたちは皆、根っからのクルマ好きだったが当時はまだ道路事情が悪かったため、遠出するには不安があった。
そこで神奈川トヨタは、ドライブの快適さ、楽しさを味わってもらおうと、この年の8月「神奈川クラウン会」を発足。
クラウンのオーナーさん約30台にサービスカーが追従し、山中湖までのドライブを楽しんだのだ。
以降2ヶ月に1回、1泊2日の「神奈川クラウン会」が実施され、当初は50人程度だった会員も、その後200人を超えた。
残念ながら「神奈川クラウン会」は活動終了となってしまったが、現在もこのスピリットは「プリウス森木会(しんぼくかい)」に受け継がれている。
プリウスのオーナーさんが水源地域の森林を健康で活力ある状態に保ち、次世代に引き継いでいくために、「プリウス森木会の森」に集い、自然観察会や植樹・間伐などの森にふれるイベントを年2回行っているのだ。
今も昔も、クルマを通じてオーナーさんがひとつになる…素晴らしいことではないだろうか。
それではまた、「ひゃくばん倶楽部」で逢おう。
■どうして私が、「ひゃくばん」と呼ばれているのか…ご存知ない方は「ひゃくばん物語」をご覧いただきたい。
【ひゃくばん物語】
私の名前は“ひゃくばん”。1955(昭和30)年生まれの63歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
「博物館でしかお目にかかれない」などという人もいるが、私は今でも地面さえあれば何処へでも走っていける。
もちろん、こうして今も元気に走り続けていられるのには理由がある…続きを読む

クラウン通がかよう 「ひゃくばん倶楽部」 第二話 : 純国産乗用車の登場
2018.05.30
「ひゃくばん倶楽部」へようこそ。
私の名前は「ひゃくばん」、この「ひゃくばん倶楽部」の案内人。
1955(昭和30)年生まれの63歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
「博物館でしかお目にかかれない」などという人もいるが、私は今でも地面さえあれば何処へでも走っていける。
さて、今日は私の生まれた時代の話をしよう。
1955(昭和30)年といえば、神武以来の好景気に乗って電気洗濯機・白黒テレビ・電気掃除機などの家庭電化製品が“三種の神器”としてもてはやされ、各家庭に普及し始めた年だ。
石原慎太郎さんが、小説『太陽の季節』を発表し“太陽族”などの流行語が生まれたのもこの年。
そして、この年の1月に発売となったのが、前輪にダブルウィッシュボーン型の独立懸架を採用するなど、最新技術が随所に盛り込まれた名車、私(初代クラウン)だ。
私が発売された時、神奈川トヨタのショールームでは、盛大に発表会が行われた。
会場には、話題の名車をひと目見ようと多くのお客様が押し寄せ、「日本人もこれほど素晴らしい車をつくれるようになったのか」と感嘆する声が寄せられた。
この時の私の価格は、101万4,860円。当時、庶民にとってとびっきりの贅沢品であった電気洗濯機が2万8千円。
国民1人平均の貯金残高が5万6千円だったから、私(クラウン)がいかに高価な商品であったかがわかるだろう。
これは「クラウン通」としては少し自慢できる話ではないだろうか。
それではまた、「ひゃくばん倶楽部」で逢おう。
■どうして私が、「ひゃくばん」と呼ばれているのか…ご存知ない方は「ひゃくばん物語」をご覧いただきたい。
【ひゃくばん物語】
私の名前は“ひゃくばん”。1955(昭和30)年生まれの63歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
「博物館でしかお目にかかれない」などという人もいるが、私は今でも地面さえあれば何処へでも走っていける。
もちろん、こうして今も元気に走り続けていられるのには理由がある…続きを読む

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