森のハーモニー第2話「時を超えて」
2018.12.05
プリウス森木会が発足する40年前の1958年(昭和33年)8月、クラウンのオーナーさんにドライブの楽しさを味わってもらおうと神奈川クラウン会が発足した。
初代クラウンが発売されて3年目のことである。当時は道路事情が悪かったため、クラウンのオーナーさん達は、遠出のドライブに不安を感じていた。そこで弊社は、オーナーのみなさんにドライブの楽しいさを味わってもらおうと、神奈川クラウン会を発足。約30台のクラウンに、弊社のサービスカーが追従し山中湖までドライブを楽しんだ。
写真は1959年(昭和34年)2月、神奈川クラウン会が主催した三浦半島一周ラリーである。ゼッケン15番のオーナーが、慎重にハンドルを握るコースの脇に、砂利や土砂が積まれている。オーナーのみなさんに無事完走していただくためには、先回りしたスタッフが道路整備にあたらなければならなかった。
これらの光景は、草創期のプリウス森木会に重なる。
秦野駅周辺からヤビツ峠にむけて、初代プリウスの隊列がすすむ。当時は1台でも珍しかったプリウスである。これだけでも、ちょっとしたセレモニーになった。
プリウス森木会の森*1にむかう林道は、左手が斜面、右手が断崖だった。雨が降れば、斜面から流れた土砂は林道を横断する。林道のコンディションは、訪れる度にかわった。もともと登り坂が苦手なプリウスである、アクセルを踏みすぎればエンジンが急に吹き上がった。右手の断崖にはガードレールも無い、私たちは古毛布や砂袋など考えられる限りの対策を講じた。
神奈川クラウン会は、4代目クラウンのころから活動を休止している。初代クラウンは、特別なオーナーが乗る特別なクルマだったが、3代目になると幅広いオーナーに普及しはじめ幅広い要望にお応えするのが難しくなったからかもしれない。
プリウス森木会は、4代目プリウスが登場した現在も活動の内容を変化させながら続いている。あの日の誰かの一歩は、時も場所も形も変えて、今の私たちに、そして未来の誰かに繋がって行くのである。
*1.草創期の“プリウス森木会の森”はヤビツ峠にありましたが、2008年(平成20年)にやどりき水源林に移転しています。

森のハーモニー 第1話「みしらぬおじさん」
2018.12.05
プリウス森木会(しんぼくかい)が誕生した頃、プリウスは特別なクルマだった。そんな草創期を支えたのも、やはり特別なオーナーさん達だった。今日は、宮前平店を長年ご愛顧いただいている堀込様ご夫婦を訪ねて、あの頃のエピソードを伺った。
それでは、1998年にタイムスリップ!
駐車場で主人を待っていると、みしらぬおじさんがトントンと助手席のウインドゥをたたいた。“えっナニ?”と思いながら、少しだけパワーウインドゥを開けてみた…
「もしかしてコレ!プリウスですか?」とワクワク顔のおじさん。
「はぁ」と私がこたえると、「初めて見ました。へぇ~、コレがプリウス…」と、なめまわすように愛車を眺めるおじさん。でも悪い気はしなかった。“そうよ!これがプリウス”という気分になった。
こんなこともあった、夫婦で家電量販店に買い物に行った際、何かのきっかけで“プリウスに乗っている”という話になった。すると店員さん達は家電品を奨めるのも忘れ、3人して駐車場まで愛車を観に来た。主人が気を良くして車庫入れのデモンストレーションをしてみせると、「あぁ!音がしない」「電気で走ってる!」と大感激だった。
ハイブリッドカーが普通の車になってしまった今では考えられないが、初代プリウスはそういうクルマだった。“クルマはガソリンで走る”が常識だった時代に、プリウスの誕生は衝撃的だったのである。

スリッパ卓球 頂上決戦
2018.12.03
こんにちは!
ブログ「神奈川 大好き!だって“生まれも育ちも働く場所も神奈川県」のウッチです!
前回のお話では保土ヶ谷区の優勝者が決まりました。
今回はついに横浜市の全18区から集まった優勝者による頂上決戦についてお話します。
午前中に開催された保土ヶ谷区大会が終わり、頂上決戦が行われる午後になると卓球台の周りには各区の優勝者らしき方々が現れ試し打ちでスリッパの感じや“はま風”の向きを確かめています。中には小学生の男の子や、紅一点、女性の方も?!
18人によるくじ引きが行われ、トーナメントの対戦相手が決まると午前中の保土ヶ谷区予選会以上の緊張感が漂ってきました。
スリッパ卓球、されど「スリッパ卓球」!!!皆さん、本気です!!
予選会のルールは、5点先取の3セットマッチでしたが、頂上決戦のルールは、11点先取の3セットマッチです。
そのため、11点の間に、リードしたりリードされたりのシーソーゲームが繰り広げられ、勝負の行方が全く分かりません!!
スマッシュが決まると、雄叫びを上げる人、静かに拳を上げる人。ボールをサイドに振られ、落ちると思いきや華麗なステップで打ち返す人。女性の方は靴を脱ぎ、裸足で挑んでいました!
また力ではなく、ボールの緩急を使い分けネット際に落とすなど、お互いスリッパで卓球をしているとは到底思えないゲームが対戦ごとに続きました。
そしてとうとう決勝戦。右側の男性は、なんと去年の優勝者!!
スリッパ卓球もプロ並み?!です。
二人が選んだラケット、じゃなくてスリッパは・・・やっぱり「ふなっしー」スリッパ(笑)
挑戦者である左側の男性は体格が良く“パワースリッパ卓球”といった感じ。
一方、去年の優勝者である右側の男性は常に冷静沈着。
相手のボールを丁寧に打ち返し隙を見て点を取りに行くといった感じで、王者の貫録があります。
大勢の観客が見守る中、ついにその時が!!!去年の優勝者が史上初?! 2連覇を達成しました!!!
お互いの激闘を称えあい、ゲーム後に握手をするお二人。
表彰式では、「来年もスリッパ卓球に参加し、3連覇を目指したい」と熱く語っていました。
10:00に始まった保土ヶ谷区予選会から、頂上決戦が終わる15:00まで結局5時間も滞在していました。
スリッパ卓球が本当に面白く、勝負の行方が気になって仕方ない、というだけでなく他にも魅力的な事があったからかもしれません。
それは普段はなかなか見て回れない商店街でじっくり時間を過ごしたり、催し物や美味しい食事を楽しむ事で時間があっという間に過ぎたからです。
私は相模原市在住なので、和田町商店街には馴染みはありません。
しかし昔ながらのお団子屋さんやお惣菜のお店などがあり、そのお店の方と何気ない会話で触れ合ったり、なんだかとても懐かしく感じました。
これがきっかけで商店街の面白さを発見したり、地元や他の地域の商店街周りをしたりという楽しみができました。
何かをきっかけに商店街に足を向け、その良さが少しでも伝わり、またそこに人々が戻ってきてくれると、シャッター商店街なんて悲しい事にはならなのかな、と思います。
全はまスリッパ卓球が掲げている「スリッパが繋ぐ地域と商店街の輪」まさしくスリッパが商店街に人々を集め、熱くし、そして繋がり、他の商店街へバトンタッチをする。商店街とスリッパ卓球を全力で愛し、盛り上げていこうと頑張っている方々をこれからも応援したいと思います。
次回は、11月12日発信のブログ「初めての陶芸♪」のワークショップで作った作品を登り窯で焼く模様についてお話します。

クラウン通がかよう 「ひゃくばん倶楽部」 第18話 : 時代をうつす鏡
2018.11.30
“ひゃくばん倶楽部”へようこそ。私の名前は“ひゃくばん”。
この“ひゃくばん倶楽部”の案内人。一般的には、初代クラウンと呼ばれている。
今日は「鏡」についての話をしようと思う。
街を走るクルマから、フェンダーミラーが消えた…。
頑なにフェンダーミラーを貫いてきたセンチュリーでさえも21年ぶりのフルモデルチェンジでドアミラーを採用したため、今でもフェンダーミラーが標準装備なのは、唯一ジャパンタクシーくらいになってしまった。
だが下の写真を見て欲しい。
1973年11月以前のクルマには、サイドミラーは義務付けられていなかった。
後方確認は、ルームミラーだけで行っていたのだ。
そのため1955年生まれの私(初代クラウン)にもサイドミラーは無い。
1958年のマイナーチェンジで、デラックスにのみフェンダーミラーが装着されたが、2代目(RS40)になっても、スタンダードには装着されていない。*
*初代クラウンのラインナップは、当初スタンダードのみだったが、マイナーチェンジで装備の充実したデラックスが追加された。
その後、乗用車にはフェンダーミラーが定番となったが、1983年に規制が緩和されるとスタイリッシュなドアミラーが主流となった。
さらに、2018年10月に発売になったレクサスESにはデジタルアウターミラーが採用されており、時代とともにミラーの形も移り変わっている。
まさに、サイドミラーは時代をうつす「鏡」なのかもしれない…。
それではまた、「ひゃくばん倶楽部」で逢おう。
■どうして私が、「ひゃくばん」と呼ばれているのか…ご存知ない方は「ひゃくばん物語」をご覧いただきたい。
【ひゃくばん物語】
私の名前は“ひゃくばん”。1955(昭和30)年生まれの63歳。一般的には初代クラウンと呼ばれている。
「博物館でしかお目にかかれない」などという人もいるが、私は今でも地面さえあれば何処へでも走っていける。
もちろん、こうして今も元気に走り続けていられるのには理由がある…続きを読む

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